ラーメン二郎

December 26, 2009

 仕事終わりで中目黒へ。改札出て右へ、駒沢通りの交差点をまた右、目黒区役所の先にこれ。
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一度食ってみたかったのよね、かすうどん。かすとは穏やかでないが、牛の小腸をヘットで素揚げしたもの(ネーミングの由来は不明)。麺もツユも関西の旨いヤツで間違いないのだが、このかす自体からもダシが出て、他にない味になっている。ホッピーに合う合う(・∀・)! ブツの写真がないのは思いの他店が狭く、撮るのが憚られたため。基本小心者なのよね('A`)
 食い終わった後は、酔い覚ましがてら周辺散策。都合4匹見た地域猫は皆肥えている、地元民に愛されてるのだろう。天祖神社裏の公園、1匹は撫でさせてくれた(´∀`)
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 その後は先の交差点に戻り、山手通りを南進、20分足らずで目黒区美術館。

  https:文化資源としての炭鉱展
//mmat.jp/exhibition/archives/ex091104


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この美術展の協力者の一員でもあるNPO法人、のショールームみたいのが先月寄った岩見沢の街にあって、入りはしなかったが貼ってあったポスターでこれを知った次第。
 タイトルから軍艦島モノクロ写真的なものを想像してたが、それはごくごく一部でしかなかった。そもそも黒船来航が1853年、陸(おか)蒸気は明治になってすぐ。だから明治初期、既に日本でも石炭産業は確立していた。その頃の炭鉱と芸術を結び付けた人はさすがに居ないが、明治も中期に入るとチラホラ現れ出す、そういう人の絵はまぁあ黒く、暗く、重く、見てるだけで圧迫されるような締め付けられるような。もうちょっと時代が進むと筑豊だけでなく北海道の炭鉱をモチーフにする人も現れるが、それらの絵の雪の白味だけでホッとするほどだ。本来、炭鉱労働の過酷さに北海道の冬の過酷がプラスされてさらに苛烈な筈なのだが、一連の絵を見てると明るさの様に錯覚してしまうのだ。
 実際掘ってた人が記憶を基に描いた絵日記っつうか挿絵とキャプション的なものもあるが、明治の炭鉱労働は本当に過酷だった事が解る。30年代前半は柱時計のある家は皆無だったとか、労働争議の事を米騒動と表現してたり。
 そいで最後の方になって、ようやく写真が現れる。北海道の雪も、写真だと煤けて黒っぽいのが解る。昭和も30年代に入ると「この街にも映画館が4件あってな…」的世界となる、しかしそれが石炭産業のピーク。で、危機感を持ったいわき市は(常磐ハワイアンセンターだけでなく)競輪事業に進出する&飯塚市はオートレースに手を染める…っつう、3競オート打ちにお馴染みの時代がようやくやって来る訳だが、もちろんこの美術展にそんなモンは出て来ない。
 見終わって、山手通りを今度は目黒方面へ…通りの向かい側に行列店があった。
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いやさすがに加わりません。地下鉄乗り継いで帰宅。

【追記】
 バクチ話に岩見沢競馬を加えなかったのは、炭鉱の街ではないから。
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