August 26, 2022

古地図は味があって良いな。
 しかしこれ↓とは若干の違いがあって、それはそれでまた面白いんだけども。

遠い記憶 羽田競馬場の歴史(1) | リアルライブ https://npn.co.jp/article/detail/30914607
>2007年09月26日 15時00分
>東京において、最初の地方競馬は羽田で行われた。1927(昭和2)年、7月15日から4日間、蒲田区羽田町入船耕地(現在の大田区東糀谷・羽田中学校のあたり)に約6万坪(約20万平方メートル)の土地を借り受け開催された。
>しかし、京浜電気電鉄が穴守線(現在の京浜急行・空港線)に臨時停車場を設けることによって、“入船耕地の競馬場”は開設後、約1年半で閉場に追い込まれる。
>東京府馬匹畜産組合連合会では、新競馬場の建設を計画し、江東洲崎埋立地が建設地に決定した。この江東競馬場は、27(昭和2)年、秋季と翌春季の2回にわたり、城南畜産組合主催の下、開催されたが、収支は大幅な赤字となり、失敗することとなった。
>こうした事情を受け、競馬は再び羽田に戻ることとなり、28(昭和3)年12月に、再度の羽田競馬が開催された。
遠い記憶 羽田競馬場の歴史(2) | リアルライブ https://npn.co.jp/article/detail/27092700
>2007年10月03日 15時00分
>この競馬場では1931年(昭和6年)まで合計7回の開催が行われ、最後となった同年7月17日から19日の3日間の開催では、41万2455円の売上を記録している。ちなみに当時の物価はそば1杯が10銭、教員の初任給は50円だった。
>そんな盛況ぶりにもかかわらず、なぜ開催は終了してしまったのか。理由は2つある。ひとつは競馬場用地の所有者からの地代アップの要求。もうひとつは、他の競馬場に比べ、施設の狭隘(きょうあい)化が目立つようになり、組合側から1マイル(約1600m)馬場への改修を望む声が大きくなってきたことだ。
>これらの事情を受け、羽田競馬は新競馬場への移転計画が、すでに持ち上がり、建設予定地には、蒲田町鈴木新田御台場耕地が決まっていた。現在の東京国際空港(羽田空港)の東南部、A滑走路の先端あたりがその場所である。
>完成した新競馬場の総面積は10万坪(約333平方メートル)、1周1600m、幅員30mという規模。現在の大井競馬場の外回りコース(1周1600m、幅員25m)と同規模といえば、その広さが実感できるだろう。
遠い記憶 羽田競馬場の歴史(3) | リアルライブ https://npn.co.jp/article/detail/97786075
>2007年10月10日 15時00分
>当時、日本一の競馬場といわれた羽田競馬は、春秋2回の競馬が開催され、全国から卓越した馬が集まった。その盛況ぶりは周辺の目黒競馬場や、根岸競馬場を凌ぐほどだったという。
>新競馬場での最初の開催は1932(昭和7)年7月3日から5日にかけて行われ、55万4229円の売上を記録している。さらに、34年(昭和9年)7月の開催で売上は初めて100万円の大台を突破、その後も地方競馬では全国一の盛況が続いた。
>しかし、当時の日本(大日本帝国)は31(昭和6)年の満州事変を機に、33(昭和8)年、国際連盟を脱退。軍事政権の下、第2次世界大戦への道を歩んでいく。そして、日中戦争の勃発に伴い立法された軍馬資源保護法の施行によって、羽田競馬は37(昭和12)年限りで廃止、翌38(昭和13)年に廃場へと追い込まれた。
>こうして幕を閉じた羽田競馬だが、わずか10年余りの歴史とはいえ、日本で最初の少年騎手学校がつくられるなど、日本競馬の発展の過程で果たした役割は大きい。
>※参考文献=大井競馬の歩み/大田区の近代文化財/写真でみる郷土のうつりかわり/地方競馬史第一巻(1972年 地方競馬全国協会)

リアルライブの母体である内外タイムスを知る人も、もう少なくなった。休刊したのは13年も前だ。首都圏の駅売り即売夕刊紙といえば日刊ゲンダイ・夕刊フジ・東京スポーツ・夕刊デイリースポーツ(←休刊)、そして内外だった。ただし部数は段違いで、前述3紙が100部以上入ってるにも拘わらず内外は5部とかで(夕刊デイリーは3競オートの昼開催の結果を載せるので売店に来るのが極端に遅く、それでも売れてはいた)、買ってる人もほとんど見掛けない、性風俗のいわゆる三行広告で食いつないでるように見えた(食いつなげなかったから潰れたのだが)。
 古い人なら、3月の中山競馬で内外タイムス杯という準オープンのレースが行われてたのを覚えてるかもしれないが、その第1回目か、当時の同僚が中山の場内で無料配布してるトコロを見た事があるという。
IMG_20220907_185452
伝統的に競艇と競輪に強くて、しかし夕刊紙であるから売店に並ぶのが下手すると15時とかになってしまって、当時はナイター開催も今とは比べ物にならないぐらい少なかったから、レース予想はいいトコ後半3レースだけ(中央競馬は全レース載せてたが)、その代わり選手の裏情報とかが非常に充実してて、今みたく選手がSNSで自ら発信するような時代じゃなかったから実に読み応えがあった。競馬も、こういうコラムが面白かった。遠い遠い昔話だ(´-`).。oO
イン・ン・アウト+1(紙ジャケット仕様)
ジョー・ヘンダーソン
EMIミュージック・ジャパン
2004-03-24



  • このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

コメントする

名前
 
  絵文字