June 16, 2013

井の頭線、消えた延伸計画と「日本一」の三鷹球場 http://style.nikkei.com/article/DGXNASFK12033_S3A610C1000000/
>2013/6/14
>井の頭線の終着駅として栄えている吉祥寺駅だが、実は途中駅になる可能性があった。京王電鉄の社史、「京王帝都電鉄30年史」によると、吉祥寺駅からさらに北に延ばす計画があったという。どんなプランだったのか。事実関係を確かめるため、国立公文書館で資料をあさってみた。
>まず見つかったのは、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)が1948年(昭和23年)12月、運輸省(当時)に提出した文書だ。「久我山 田無間鉄道延長線敷設について」とある。
>さらに調べていくと、翌1949年12月に京王は違う申請を出していた。「計画を変更する」とある。久我山から分岐するのではなく、井の頭線を吉祥寺からそのまま延ばす、という。吉祥寺駅から田無駅へ向かい、さらには西武池袋線の東久留米駅(東京都東久留米市)まで延ばすプランに変わっていた。これが、井の頭線の延伸計画だ。
>文書には気になる記述があった。「申請中のものとして西武鉄道株式会社より武蔵境、東伏見間の地方鉄道敷設免許申請があるが競願関係とはならない」
>なんと、西武鉄道も近くで鉄道敷設を計画してた――。いったいどんな計画なのか。公文書館でさらに調べていくと、今度は西武が提出した文書が見つかった。
>西武が申請を出したのは1949年(昭和24年)10月のこと。京王が最初に免許申請してから1年とたっていない。
>東京都府中市の是政駅から武蔵境駅(武蔵野市)まで走る西武多摩川線を、西武新宿線の東伏見駅(西東京市)まで延ばす、という計画だった。1950年10月には一部を修正し、西武新宿線側の接続駅を東伏見駅から武蔵関駅(練馬区)に変えている。
>ほとんど同時期に同じエリアで路線が競合するのは偶然とは思えない。何があったのか。改めて両社の申請書を見比べてみると、どちらにも、ある施設のことが書かれている。その施設の名は「スポーツセンター」という。
imagehttp://www.nikkei.com/content/pic/20130614/96958A9C93819499E3E0E2E1E18DE3E0E2E4E0E2E3E1E2E2E2E2E2E2-DSXBZO5609771011062013000001-PB1-62.jpg
>終戦後しばらくして、武蔵野市を一大スポーツ拠点にする構想が持ち上がった。陸上競技場やサッカー場、プールにテニスコート、巨大な選手宿舎などを作るという計画だ。その中核を担ったのが、当時日本一ともうたわれた野球場、「東京スタディアム」だった。
>「東京スタディアム」は両翼91.4メートル、中堅128メートルもある立派な球場だった。収容人数も6万人近かったという。後楽園球場よりも大きかった。
>京王、西武の新路線は、この球場へのアクセス権を巡る争いでもあったのだ。
>都心部からかなり離れた場所に、なぜこれほど立派な野球場ができたのか。ジャーナリストの長沼石根さんによると、発案者は東海大学の創立者でもある松前重義氏だという。
>中島飛行機の工場があった広大な敷地に、戦後、武蔵野市がスポーツ施設を構想した。市がプロジェクトのリーダーとして目を付けたのは、市内在住の松前重義氏。逓信院総裁も務めた松前氏を三顧の礼で迎え入れ、何を目玉にするか議論した。
>関係者の多くは競輪場を主張したが、松前氏は野球場を強く推し、1949年10月、野球場建設が決まった。
image武蔵野中央公園に向かう遊歩道の途中に、武蔵野市が作製した看板があった。三鷹駅の北にかつて野球場があったことを示している http://www.nikkei.com/content/pic/20130614/96958A9C93819499E3E0E2E1E18DE3E0E2E4E0E2E3E1E2E2E2E2E2E2-DSXZZO5615193013062013000000-PB1-59.jpg
>さっそく松前氏は国鉄に話を持ちかけ、三鷹駅から中央線を分岐させることに成功する。中島飛行機が三鷹から工場まで物資を運ぶために使っていた引き込み線を利用したのだ。球場の前には「武蔵野競技場前」という駅を設置し、試合がある日は東京駅から直通運転を行った。
>さらには発足したばかりの国鉄スワローズなどプロ球団に声をかけ、1951年(昭和26年)からプロ野球の公式戦が行われるようになった。初戦の勝利投手は国鉄の金田正一。川上哲治、青田昇らスター選手が連日登場した。
>だが、活躍もここまで。なんとこの球場、たった1年しか稼働しなかったのだ。
>「春になると西の方の空が真っ赤になるほど紅塵が舞い上がるのが毎年のことであった。集まった観客にその紅(あか)い砂が舞い落ち、目の中に入って野球をみておれない」(関島久雄「中島飛行機の大きな工場と小さな鉄道、そしてその後」)
>当時、このエリアには連日強風が吹き、土ぼこりが舞った。グラウンドがかすむほどだったという。芝生が定着する前に見切り発車したことも響いたようだ。あまりに評判が悪かったため、オープン後1カ月で一時閉鎖して整備し直したものの、8月を最後に公式戦では使われなくなった。東京からの遠さも各球団の足が遠のいた一因だったようだ。
>運営会社は1953年(昭和28年)に解散。球場は1956年(昭和31年)に解体された。日本一の球場は、1年間稼働したあと放置され、わずか5年で姿を消した。
>野球場の挫折は、京王、西武の計画をも狂わせた。1958年(昭和33年)、当てが外れた両社はそれぞれ、新路線建設の申請を取り下げた。
>西武はこう記す。「申請当時と著しく事情が変化した」。いずれは東京五輪の会場にも、と意気込んでいたというだけに、関係者の無念は想像に難くない。(河尻定)

国鉄(=現JR)武蔵野競技場線の事は知っていた。だから同線のそもそもの由来である、幻の東京スタディアムの存在も一応知ってはいたが、しかし京王と西武の延伸計画は初耳だった。
 東京オリンピックは1972年、この当時としてはだいぶ先の話だし誘致活動も具体的にしてはいなかっただろうけど、それでも構想ぐらいはあっただろうし、それは大ブロシキだと笑い捨てるにはあまりにもったいない、魅力的なプランだったろう。そしてそのアカツキには一枚噛まさせてもらって…という遠大な計画はしかし、それを実現させるためには絶対に大成功させなければいけない最初の一歩で躓き全てご破算となった。拙速という言葉で片付けるには手にし損ねたものが大き過ぎる、歴史的分岐点だった。
 もし仮に、球場が成功し、後に同地が一大スポーツ施設となり両線が敷設されてたらどうなってただろうか?…まあ、考え出すとキリがなくなるので3競オートに限定するが、多摩川競艇へのアクセスルートが増えてる分だけ行き易くなってて、今よりもうちょっと栄えてたのは間違いない。
 逆に、当時の関係者の多くは競輪場を主張したとあるが、そうなってたらどうだったろうか?両線の計画はもちろんなかっただろうが、それよりも、野球場建設が決まった49年10月の前月(!)である9月、遊園地をクローズして競輪場に転換した京王閣が開業してる。西武園は翌50年春、立川は51年の秋だ。ここにも大きな影響を及ぼしたであろう事は想像に難くない。当時ですら「東京から遠い」と評され都心からの集客に苦労した三鷹のさらに先、立川は出来なかった可能性もある。逆に、それでも立川は強行して多摩地区がアリ一匹入り込めない一大競輪エリアと化し、憐れ多摩川競艇は…となってたかもしれない。でも、競輪売上危機となり花月園がクローズしたのと前後して、オーヴァーストア状態の多摩地区も、結局はどこかしらなくなってる可能性が極めて高い。あと、京王閣の施行者である東京都十一市競輪事業組合には武蔵野市も参加してるが、これも違う形になってる筈だ。
 …いやホント、歴史的分岐点だったよな。良かったのか悪かったのか(’A')

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