April 30, 2009

 日本人はとかく熱し易く覚め易い、一たびブームになるとアッという間に敷衍するが下火になるのもまた早い。ブームになり消えていったものは枚挙にいとまがない、昨今のお笑いブームの中で脚光を浴びたのにもう消えてしまった芸人すら何組もいる始末。
 一方、そんな日本人気質であるが故に、敢えてアンチテーゼとして『伝統』を売りとした商品というのも高い訴求力を持っている。京都・奈良・浅草・歌舞伎・落語・大相撲・和菓子etc.皆景気の波に左右されたりしつつも、ニッチビジネスの一言で到底片付けられない巨大なマーケットを誇っている。これらもこれらなりに新しくなってはいるのだが、しかし本質的な部分に手を加える事は決してしない。それがマイナスに働くのが自明だからだ。
 例えば大相撲を純粋に一スポーツ、sumo wrestringと捉えるならば、不合理な点はたくさんある。横綱や幕内力士の入場セレモニーもそうだが何で髷を結わねばならんのか、競技とヘアスタイルに何の関係があるのか…それは、元が神事だったから。そこに手を加えると、大相撲が一スポーツに成り下がって(!)しまうから。未だに土俵に女性を上げないのもそう、単に男女同権がどうとかいう問題じゃない。理屈を超越した伝統、というものがあるのだ。
 世界の競馬はスピード化の方向に働いている。旧八大競走からのファンは以後新設されたGI、わけても二歳戦やスプリントのそれを「水増しGI」「上げ底GI」ととかく軽視しがちで、平成競馬、21世紀競馬を短距離偏重と捉えるが、しかしそれが世界の流れなのだからしょうがない。オーストラリアなど日本なんかメじゃない短距離偏重、ほとんど全レースがスプリント的競走体系になっている。しかし、かの国の最高峰レースであるメルボルンカップは3200m。競走体系から掛け離れてるし種牡馬選定レースとしても機能していない。では何故距離短縮をしないか?答えは「それが伝統だから」だ。
 欧米では、チャンピオンディスタンスは二四ではなく二千という認識に既になっている、しかし凱旋門賞を距離短縮しようという声は挙がらない。ホースマンの認識の方が変化し、例えばかつてセント・ジョージ競走が軽視されていったように、将来的に凱旋門賞が「二四なんて時代遅れの距離使っても…」といった時代が遠からず来るかもしれない、しかしおそらく、それでも距離短縮はされない公算の方が強い。そしてそれらと同じ理由で、天皇賞(春)も距離短縮される事はないだろうししてはいけない、何故なら、それが伝統だからだ(俺的には今でも4月29日に開催するべきだと思っている)。春シーズンに中距離チャンピオンを決めるレースとしては、GI宝塚記念が既にあるではないか。
 今の宝塚が必ずしもそういう位置付けがなされてないのは確かだ。しかしこれは、特に今の時期に施行された事で顕著になった。かつては3回阪神と2回中京(今年度の3回中京に相当)が入れ換わってて、これは夏競馬の活性化と二連続開催で傷んだ芝の回復を意図したものだが、どちらも有効に機能してはいない。前者は暑さが厳しい時期のため一流馬ほど無理遣いしたくない(=馬は暑さに弱い動物である)事や、秋競馬への間隔が詰まるから敬遠されがちだし、後者は1、2回阪神での芝コース施行数を制限&仮ラチのさらなる有効活用をすれば良いだけだ。マイルGI安田記念共々、施行時期を大幅に前倒しすれば全て丸く収まる、もう「春天を二四に!」などといったバカげた声も収まるに違いない( ´-`)y-~~~

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